地球に住む僕らが、その土地の生理と共に生きることからここまで離れてしまった事は、地球の生理を知るほどに胸に突き刺さってくる申し訳なさで一杯に満たされます。
お山の楢枯れがドンドン進み、痛々しい姿を毎年確実に、それも急速にそのレベルを更新していっております。
その為に住みかを奪われた動物たちも、苦し紛れに里におりてくる。
楢枯れの進んでいるところは、全ての生命を育む伏流水さえも、死滅させて悪循環を繰り返し、それがマクド型システムにドップリ浸かっている我々の生き方故に、取り返しのつかないギリギリの状況を必死に生きている。

いつから僕らは、【観る】事を生きるから遠ざけたのでしょうか?
有識者による回答は様々にありますが、理由も解決法も、所詮【見る】から生まれでたものには、其処に入らないでの他人事という机上論ばかりが目につきます。
自分が堕落側に含まれていないのです。
其処に入らないのなら、入ることが難しい様々な問題があるのなら、それなりの危うさので、都市生活を謳歌していると実感だけは、もってほしいのです。
そのツケが既に様々な形でここまで露見しているのだから、福島や浜岡に原発を作らせていたのは、他でもない自分だと思考を進めて、そこから新たな方向を一人一人が探り、実験して積み重ねていく事で生まれる、自然界と共に謙虚に生きれる人間社会を模索するなかから、生きる技能が開発されて行くと思うのです。

首都圏直下型が起きてから気付くとか、それでも気付かないとかの範疇ではなく、その時どれ程の悲惨な状況になるのかと、備えていればまだしも、備えるという事の意味合いさえも他者に任せていた我々の生活の危うさが、本当に観えたときでは余りにも遅いと感じるのです。
チェンジを決断することが日々じわじわと迫ってきています。
其処に生きる意味を見つけ、せめて伏流水のインフラを其までに整えたいと躍起になっている自分の、堕落さに愕然とするのです。
この堕落側に身をおけたときに、まさか踊る意味合いの本質が見えてくるとは、夢にも思っていなかったのです。
僕が非力だと言う事は、僕自身が伏流水枯れの加害者だと認めなくてはならないのです。
何故もっと早く、自分の生きる時間を全体の為に使わなかったのか。
その都合の悪い事から逃げて、先送りしてきたのかと。

では其処で踊るのかと問いただすと、「それはまだ早いよ」と心の叫びが聞こえてくるのです。
最後まで、地球の体液である伏流水を人体内部に届けて、一人でも多くの方がこの地球さんと運命を共にしようと動き始める、「体からの気付き」という身体感覚にまだ期待している自分が、正直な自分だからなのです。
そしてその瞬間、何故ゆえに身体感覚の気付きワークを仕事にしてきたのかを実感する、自分の核との再会と再認識でもあるのです。
僕は、きっと最後まで、気付ける体に期待して生きていくのでしょう。
其ほどに、伏流水は、大いなる力を持っていると信じたい。
本当に素晴らしい温泉に浸かって、気持ち良いねと思えるあなたの内臓感覚に、気付きを起こしたい。
その僕のワークなど足元にも及ばない絶対的な教師である、伏流水を知ってしまったからす。
だから届けたいのです。
せめて二年、震災が僕らに違う現実を突きつけて来るときまで、この山から汲み出した地球の叡智に満たされているお水を共に飲んでみていただきたいのです。
何故なら、僕は非力で堕落したものです。
しかし、伏流水は、最後まで堕落などしないものです。
だからある意味で僕は、自分の教える仕事を、地球先生にもう委ねたとも言えるのです。
情けないのですがある意味、神頼みになってきました。
勿論、神頼みに出逢うために行動し続けますが、所詮僕の力には、限界がある事を知っているからです。
だからお山に水を汲みに幾度に、祠にお水を捧げて、必ずお賽銭を起き、祈って来ます。
このお水が一人でも多くの人の気付きに届いてくださいと。





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